当院がある八丁堀界隈は
江戸時代より前は葦が生い茂る地でしたが

家康が江戸幕府を開き江戸の町を作り始めると
埋め立てられて陸地になり

町が栄えてくると 
江戸湾から城下に物資を運ぶ船が行きかう水路が
作られました

そして 今の八丁堀 茅場町のあたりは西の楓川
 (弾正橋が架かる川で 今は埋め立てられて首都高の江戸川ランプ~京橋ランプ)北の日本橋川(日本橋が架かる川で 今は高速道路の真下です)東の亀島川(八丁堀と新川を隔てる現存する川)

そして南の 八丁堀の地名の由来となった八丁堀

の4つの川や水路によって区切られていました

 4つの川 水路を説明する地図


八丁堀は
江戸時代初期(1610-20年頃)に開削されましたが 
長さがおよそ八丁(870m)だったため
その名がついたそうです

この頃
今の新川エリアの南側は
霊岸島と呼ばれていました

ちょうど八丁堀が掘られてしばらくした頃に
霊岸寺が建立されたからですが

大火で寺が深川に引っ越したあとに
福井の松平越前守が屋敷を構えたため 
越前堀と呼ばれたそうです

今でも”越前堀”薬局さんがあります

また亀島川沿い(今の新川の北側)は
酒問屋を中心とした問屋の町として栄えたそうで 
そういえばあのあたりには
今でも酒屋さんの事務所や倉庫があります

明治になると八丁堀は桜川と呼ばれるようになりましたが
西の楓川が秋の楓なので
春の桜で桜川と呼ばれるようになったとか

なんとも風流な命名です

 桜川の写真

昭和35~44年頃に完全に埋め立てられて 
その上にあるのが現在の桜川公園だそうです

 桜川公園の様子

 昔の桜川の写真

埋め立てられる前の桜川の写真 
うーん さすがにこの頃のことは覚えていませんね

医院の前の鍛冶橋通りには 
昔は都電が走っていました

廃線になる日に花電車が走り
それを喜んで見学したのはしっかり覚えています

 花電車が走っている様子

年配の患者さんのなかには
あの都電で日比谷に仕事に通っていたのよ 
と言われる方もおられます

中央区郷土史同好会のHPを見ると
八丁堀の七不思議 というのがあったそうで

1. 奥様あって殿様なし
2. 女湯に刀掛けがある
3. 金で首がつなげる
4. 地獄のなかに地蔵橋がある
5. 寺はあるが墓はない
6. 一文なしでも世帯が持てる
7. 百文あれば一日楽しめる

うーん なんだか意味不明のことが多いけれど
あやしげな匂いがしますね

良い子はこの辺りには出入りしない方が
良いかもしれません(笑)

それと 
奥様あって殿様なし とか 
女湯に刀掛け とか

当時の女性たちは勇ましくて
家では同心たちを牛耳っていたのかもしれません

時代が変わっても
そのあたりは変わらないということでしょうか?(苦笑)


一文は現在の20-30円に値するそうですから 
一日楽しむのに2000-3000円
 
安いのかな?高いのかな?
まあ なにを楽しむのかにもよりますね(笑)

きっと昔は 
四方を商売の船が行きかう水路に囲まれた
活気も情緒も(あやしさも?:笑)ある
そんな雰囲気の町だったのでしょう

以前にも書きましたが
冗談抜きで 
ちょっとタイムトラベルしてみたいものです

水路に囲まれた町の様子

高橋医院