「個性」は本当に必要か?
あなたにとって「それ」は何ですか? という問いに対し 哲学者は 「それは 運命であり 呪いでもある」 と答えます さすが哲学者 語ることが深遠に聞こえますが でも意味不明です(笑) 物理学者は 「フロンティアに必要なもの」 天文学者は 「外のものと比較してはじめてわかるもの」 生態学者は 「種の持続可能性を高めるために必要なもの」 脳科学者は 「無意識のうちに育まれてしまうもの」 文献学者は 「何かを求めるなかで おのずと表れ出るもの」 政治学者は 「さまざまなアイデアを借りるなかで育まれるもの」 言語学者は 「いちばん重要なことだが いちばん問題なことでもある」 統計学者は 「コストを必要とするもの」 さまざまな分野の研究者たちは 「それ」について こんなふうに答えていますが さて「それ」は何でしょう? 本屋を徘徊していたとき ふと目についた1冊の文庫本のタイトルは 「個性」はこの世界に本当に必要なものなのか (角川アスキー新書) 東大・駒場教養学部の さまざまな分野の研究者たちが 理系・文系の垣根を越えて 「個性」について語っています ささっと読めて 何気に奥が深いことが書いてある気もして(笑) ちょっとお勧めです 確かに「あの人は個性的だよ」などと よく言いますが その「個性」が意味するものは かなり漠然としたものです 昔の日本では「個性的であること」は 必ずしもpositiveな評価を受けなかったけれど イマドキの日本ではその逆で 猫も杓子も「個性的であること」を 過度に評価し主張する風潮も感じます ときには「個性的であること」を はき違えているように感じることもある (書き手からそんなことは言われたくない?:苦笑) そんな「個性」を 文系理系を問わずさまざまな研究分野の人が どのように認識しているかを探る視点は 意外に面白い そして その比較により 各研究分野の「個性」が浮かびあがってくるので 一粒で二度おいしい 企画編集された方は そんな効果まで見通しておられたのかな?(笑) 医学は 文系と理系のあいだをさまよう コウモリのような存在で ”理系的思考”と”文系的感性”の 両方を持ち合わせていないと 臨床医は務まらない と書き手は思っていますが そんなバックグラウンドを 有するモノとしては 生態学者や脳科学者の気持ちは 良くわかる 物理学者や天文学者の考えも まあそうかなという感じで すんなりと受け入れられます 哲学者の考えも 日々の臨床経験からすると 納得できる気がします 文献学 政治学 言語学の考えは まあ言われてみれば確かにそうだな という感じ(笑) 統計学者の 「コストが必要なもの」 という答えは 面白かったです 統計学というと 「平均値至上主義」のイメージがありますが それは 「データ分布の端のほうにある個性的なデータ」を 取り扱う技術とお金がなかったからで データ処理の コストパフォーマンス改善(電算機能力の向上など)と データ収集コストの低下 (インターネットの普及など)により 今や”端のほうの 個性的なデータ”も取り扱える ”ビックデータ” が 世間を圧巻しつつあるというのです そうか ビックデータを取り扱えるようになったことの本質は 平均値がより正確になることではなく 個性あるデータを 見逃さないようになることなのか なるほど~! 確かに言われてみればそうだな、、、 でも やはりそれは 未だにコストがかかるものだそうです(笑) 編者は最後にこうまとめます 「個性」を考えるとき その対極にある「共通性」や「同一性」を まずもって意識し そことの関係のなかで はじめて「個性」を考え 発揮すべきであると 要するに 基礎を無視した 独りよがりの好き勝手は 変人であって個性ではありませんよ ということですね(笑) まあ 至極ごもっともなまとめだと思います 何事においても大切なのは基礎の修練で そこがきちんとできた上で そのラインからいかにして 水離れして飛び立つかがポイント ということでしょうか? 編者のまとめはさらに続きますが ちょっと長くなったので 次回につなげます ところで 経済学 文学 芸術 古典芸能 スポーツ などの分野の 専門家の考えも聞いてみたかったな、、、 古典芸能の継承者達が語る「個性」 面白そうな気がしませんか?(笑)
高橋医院