新型コロナウイルスを怖がり過ぎる社会になったのは専門家のせい?
現在の日本社会の 新型コロナウイルスに対する対応は どこかおかしいのではないか? と疑問を呈して情報発信しているウイルス学者もいます 国立感染研や アメリカの疾病対策センター・CDCで研究されてきた ウイルス学者の西村秀一先生で 仙台医療センター・ウイルスセンター長をされています 西村先生のご意見は 朝日や日経のインタビュー記事として拝読して そういう見方もあるのかと勉強になったので ご紹介したいと思います まず西村先生は 現在の日本の新型コロナ対策は 実態と合っていないと指摘されます <ウイルスが街中に蔓延しているわけではない> 厚生労働省が6月に実施した抗体検査で 東京の保有率は0.1%で そこから推測すれば 街中そこかしこでウイルスに遭うようなことではない いま感染者が出ている多くは 限られた地域の特定の場所だけで ウイルスが街中に蔓延しているわけではない 消毒の仕方も奇異で ウイルスは感染者の体外に出て寄生する細胞が無くなると 少し時間が経てば活性を失うものなのだから なんでもかんでも 全てアルコール消毒をする必要はない プラスチックなどの表面で 新型コロナウイルスが生き残っているという データもあるけれど 論文をきちんと読むと 表面に載せた1万個弱のウイルスが最後の1個まで死ぬのに 3~4日かかったというもので 生きているウイルスは最初の1時間でほぼ1/10に減っている ウイルスの初期量が少なければ もっと短い時間で感染リスクはなくなると考えられる 私たちは 錯綜する膨大な情報により まるで街中のドアノブに 生きたウイルスがいるかのようなイメージを 刷り込まれている感じだが 実際にそれを証明した人はいない 百歩譲って存在していたとしても その数は人に感染を起こさせるほど多くないはず 人々はウイルスを怖がり過ぎているように感じる 確かに書き手も プラスチックなどの表面で 新型コロナウイルスが長時間生存するという話は ニュースなどで見聞きしましたが 発表された論文にそうしたことが書かれていてことは 知りませんでした 西村先生のご意見は続きます <怖がり過ぎの弊害> 怖がりすぎが 感染以上の弊害を生むリスクの最大の問題は 人々を分断してしまうこと 人間のコミュニティーは 人と人との接触で成り立っているのに 過剰に恐れるということは お互いを信用しないということにつながってしまう 一方で 外出ができなくなって 高齢者などでは 筋力が衰えてくる その影響で内臓疾患も増えてくる可能性もあり コロナ禍で増加しているとされる超過死亡の原因には そういう二次的な影響があるのかもしれない 「接触の8割削減」の目標を設定するときには そのような影響があることにも 思いを致すべきだと思われる 「怖がり過ぎ」ですか なるほど~という感じがします では どうして 「怖がり過ぎの社会」になってしまったのか? 西村先生は 専門家に責任があると指摘されます <専門家のあるべき姿>
専門家が 正しく恐れるために欠かせない情報を きちんと示さないので 世間の人々が不安を抱き 社会や経済が混乱している 専門家に課されているのは 定量的なリスク評価 である 専門家なら リスクがあるかないかという 定性的な話をするのでなく どれくらいあるか 定量的に評価しなければならない リスク評価の根幹は 具体的な確率を検討すること 自信のない「専門家」は 何かあったときに発言の責任を問われたくないので ほとんど起こりえない確率でも 「可能性がある」と言いがちだが そんなことなら素人でも言える そして 専門家と称している人の言葉なので 一般の人々は 「可能性がある」を「必ずある」と受け取り 過剰反応が生まれる 怖がらせることで 警告効果を高める考えもあるだろうが 怖がりすぎることで コロナの何倍もの命が失われるかもしれない 可能性ばかり言っているだけで 「ここまでは大丈夫ですよ」と明言しないのは 専門家のあるべき姿ではない メディアも専門家に「可能性」の確率を問うべきだ また このところの「専門家」は 論文の前提条件や仮定も飛ばして そこにある数字だけを右から左へ流すばかりで それでも世間の人たちは 「専門家の言うことだから」と信じて 何でも怖がってしまうことになる 厳しいご指摘ですね! 書き手も いつかテレビのニュース番組で キャスターさんが「専門家」のコメンテーターさんに 「今コメントされたことが起こる確率は 何パーセントですか?」 と間髪入れずに聞かれていたのを見て うわっ 厳しいなあ と感じましたが まっとうな専門家は そうした問いに ビシッと答えられないといけないのですね うーん 考えさせられます、、、
高橋医院