清少納言 と 紫式部

王朝文学史に燦然と輝く名を残すふたりが
ライバル関係 
女の戦いがあったのではないか?

そんな風に邪推されるのは
ふたりがともに 
一条天皇の後宮に仕えていたからです

清少納言

清少納言の肖像画

一条天皇の最初の妃である 
定子に仕えました

定子は 
時の絶大なる権力者 藤原道隆の娘で
一条天皇が10歳 定子が14歳の時に 
定子は後宮に入内しました

その3年後に 
清少納言が女房として仕えるようになります

清少納言と中宮・定子が描かれた絵

一条天皇も定子も 
聡明で文化好きだったことから
定子が中心となった後宮は 
まさに洗練された栄華な世界で

人々が共有する知性 教養に裏付けられた
風流で機知に富んだ会話が交わされる 
開明的な雰囲気にあふれていたそうです

後宮の様子が描かれた絵

しかし 
幸せな良き日は長くは続かず
道隆が糖尿病で没すると 
藤原家内で熾烈な権力争いが起こり

道隆の長男・伊周(定子の兄)は
道隆の弟の道長の陰謀により
失脚してしまいます

定子の周りの人間関係を示した図

そして 世は 道長の時代になります

道長は 得意の策略を巡らせて 
定子が一条天皇に会えないようにし

さらに自分の娘の彰子
一条天皇の第2の皇后として
後宮に送り込みます

一条天皇が20代 彰子が12歳のときです

彰子を後宮に送り込む道長を描いた絵

こうしてふたりの皇后が
並び立つ状況になりますが

定子 一条天皇 彰子が並ぶ絵

既に清少納言らの活躍により 
文化の誉れ高い定子の宮に対抗するように

道長は教養高い女房をたくさん
ヘッドハンティングして
彰子の宮を盛り上げようとします

ここでスカウトされた女房のひとりが 
紫式部でした

紫式部の肖像画

紫式部は 
清少納言に匹敵する活躍を道長に求められ
当時は貴重品だった紙 墨 硯などを 
道長から豊富に供給され
源氏物語を書くに至ったと言われています

そういう意味では 
清少納言と紫式部は
それぞれ 
定子宮と彰子宮の文化広報担当職のような存在で
確かにある意味で 
ライバル関係にあったと言えるのでしょう

定子に仕える清少納言 彰子に仕える紫式部の関係図1
定子に仕える清少納言 彰子に仕える紫式部の関係図2

しかし定子は 
彰子が後宮に入ってからわずか10カ月で
産後の状態が悪く 
25歳の若さで 
あっけなく亡くなってしまいます

そして定子の宮はなくなり 
清少納言も後宮から去ります

紫式部が彰子の宮に
女房として仕えるようになったのは
彰子が後宮に入って何年後かと言われていますから

実際に後宮で 清少納言と紫式部が
顔を合わせて言葉を交わすといったことは
なかったと考えられています

うーん 才能があり筆も立つ女同士の
バチバチとした火花を散らす争いを
期待する下衆としては
ちょっと残念な展開ですが(苦笑)

清少納言と紫式部の争いを描いた漫画

でも 少なくとも紫式部は
清少納言のことを 
かなり意識していたようです

というのも 
紫式部は自らの筆で清少納言のことを

利口そうに漢字を書き散らしているけれど 
よく見ると間違いも多く
こんなふうに自らの才能を
ひけらかそうとする人の行く末は
必ず悪くなるばかりだろう

と 辛辣に評しているのです

しかも 
後ろ盾である定子が亡くなり
清少納言がひとりでわが身の行く末について
案じている状況で
このように完膚なきまでに論破していて

水に落ちた犬は打て的な感じで
うーん ちょっと意地が悪いかな 
という感じすらします

ライバル視する紫式部 無視する清少納言を描いた絵

確かに 
知的で華やかだった定子の宮 
その中心にいた清少納言に対して

時の権力者の交代により 
しゃしゃりでてきた感じの新興の彰子の宮で
清少納言と同じ役割を求められていた紫式部としては

定子の宮や清少納言に対する
並々ならぬ対抗心やライバル意識は
あったのでしょうが

清少納言が 
なにかの折に単なる興味で
紫式部の亡き夫の派手な衣装を
難じたことを根に持って
清少納言に対してただならぬ意識を持っていた
という説もありますから

もしかしたら 
紫式部の方から清少納言への
一方的な負の感情ベクトルが
あったのかもしれません

それに 
ふたりの性格が 
対照的と言っていいほど異なっていた

紫式部が清少納言を過度に意識する理由は
そんなところにもあったように思います

ふたりの性格が 
どんなに対照的だったかは
次回詳しく説明します
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