ポリティカル・コレクトネスは窮屈か?
アメリカ社会で 特に民主党を支持する人や知識人の間では 全国民の70%余りが信仰するキリスト教とは 少し趣が異なる宗教が蔓延している と著者の山口さんは指摘されます それこそが「リベラル信仰」であると そして その教義は 頑ななまでの人種間の平等主義 歴代の民主党政権のもとで この教義が国家の教えとして広まり あたかも国家によるリベラル信仰の布教が 行われたかのようで 今や アメリカの教義 知的階層の共通言語 共通価値観 になっている その根底にあるのは 「黒人を奴隷としてきた歴史が アメリカ人の原罪である」 ととらえる マジョリティである白人の自省的な考え方で ジョンソン大統領時代の公民権運動を途端として 現代では 黒人 性別 同性愛などによる差別の禁止に 至っている ここに ポリテイカル・コレクトネス(PC)という 最近よく耳にする概念が 連結してきます PCは 人種的 性的嗜好など いかなる意味においても少数者を差別しないことで 1970年代のフェミニズム運動の頃から使われ始め リベラル信仰と密接に関わってきました 今のアメリカ社会では 特に表現の側面で重要視され 厳格に適用されるようになっています 斜めから見ると アメリカ人の差別に対する過敏さの表れ とも言えるのでしょうが 今や アメリカのインテリとは PCについて十分に教育を受けた人とされ セクシャリテイや性嗜好をジョークのネタにするなど もってのほかで 知識人は日常生活において完璧なPCを要求されます うーん なんだかちょっと 窮屈な感じもしますよね?(笑) で この本が面白いのは ここから論が深められて 「リベラル信仰は病ではないか?」 と議論されるのです 若い頃はリベラルに憧れを持っていたくせに PCはちょっと窮屈じゃないの? と感じたりしている天邪鬼な書き手の 下衆心をくすぐるのですよ(苦笑) リベラル信仰は 行き過ぎではないか? 確かに それが人々の善意から始まったことは 疑いようがないけれど 歴史の過程で知らぬ間に 欺瞞と偽善に満ちたものに 変化してしまったのではないか? リベラルは コンサバな共和党支持者に多く存在する 中絶 同性愛は聖書の教えに反するものと断じる 敬虔なキリスト教徒を偏狭と批判するけれど そのリベラル信仰も ある意味では狂信的ではないか? リベラルは 多様性への寛容 少数者への共感 を掲げているのに 自分たちの理想にそぐわない考えの人々を 異端視したりして 自らの不寛容さを爆発させることがある そもそも 国家と一体になり 個人の内面の価値観にまで干渉しようとする そんなリベラル信仰は 国粋主義やナチズムと根幹のところでは 同じ危険性を伴っているのではないか? もちろん コンサバの人たちの一部には 建前上は否定しているけれど 密かに公然と存在する差別意識があり そうしたものに反対するリベラル精神は大事だけれど 弱きを助け 強きを挫く という姿勢こそが正義だ という リベラル信仰者の金科玉条的で過剰なヒロイズムは ちょっと鼻につくし うさん臭さも感じはしないか? 読み手の皆さんは どう思われますか? 書き手は こっそりと うんうんと頷いてしまったりするのですよ(苦笑) つづく
高橋医院