アンナ・カレーニナ
エイフマン・バレエの第2作目は
アンナ・カレーニナ
トルストイの不朽の名作です
書き手は
ドストエフスキーよりトルストイの方が好きだったので
中学の頃に読んで
ストーリー展開にビックリしたのを覚えていますが
内容を深く理解できていたかどうかは
自信がありません(苦笑)
この小説は
ロシア貴族夫人のアンナが
若き将校のヴロンスキーと運命的に出会い 不倫して
その結果 社交界から拒絶され
夫や子供を失い ヴロンスキーにも去られ
最後は列車に飛び込み自殺するという
かなりセンセーショナルなストーリーですが
書き手が初めて読んだ頃は
今のように不倫という言葉も行為も
流行っていませんでしたから
正直言ってピンとこなかったかも?(笑)
さて ロダンで感動させてくれたエイフマンさん
今度はアンナ・カレーニナを
どのように料理してくれるのでしょう?
ちなみに この日の座席は
2階 2列 22番
ネコ好きにぴったりの席でした!(笑)
第1幕
スポットライトの下で幼い子供が
円環状のレールの上を走り続ける蒸気機関車のオモチャで
一人で遊んでいるシーンで幕が開きます
その子供を優しく見守る アンナと夫のカレーニン
やがてアンナは舞踏会で ヴロンスキーとの運命的な出会いを果します それから 夫カレーニンとの心理的な葛藤を描く さまざまなバリエーションのデュエットが 繰り広げられます 最初は冷たく形式的な 静かなデュエット ヴロンスキーと出会ったあとは カレーニンへの拒絶や嫌悪の情が現れる 激しいデユエット ねじれたポーズ スケールの大きなリフト 激しい上下動が ふたりの微妙に しかし確実に変化していく心の綾を 見事に表現していきます
アンナの変化に悩むカレーニンの 心情を吐露するようなソロのダンスも なかなか素敵でした 全編を貫くのは チャイコフスキーの音楽です
第2幕
再出発をはかったカレーニンとの夫婦関係に
息詰まるような閉塞感と限界を感じて悩むアンナ
ヴロンスキー カレーニン そしてアンナの 激しいやり取りの3人のダンスのあと アンナはヴロンスキーと共に家を出ますが それは夫だけでなく 子供との別れも意味しています
ヴロンスキーとの つかの間のアヴァンチュールを楽しんだあと ロシアに戻ると 社交界から不倫を咎められ 拒絶されるアンナとヴロンスキー 群舞が アンナたちを取り巻く社交界の厳しいムードを とてもわかりやすく体現しています
そして ヴロンスキーにも去られてしまうアンナ
苦悩のアンナのソロダンスは とても惹きつけられる感動的なものでした そして 衝撃的な結末
黒尽くめの衣装のダンサーの群舞が 蒸気機関車の動きを暗示させ そこにアンナが飛び込んで 飲みこまれていくのです
最後は
多くの人々が見守る中を
荷車に乗せられ運ばれる覆いをかけられた人体から
足だけがはみ出しているシーン
客席にはお子さまも散見されましたが これは18禁ですね(苦笑) でも ロダンに負けず劣らず この舞台も感動的で 惹きつけて離しませんでした 前回同様 スタンデイングオベーションが 10分以上続いたのは言うまでもありません
さて 例によってプログラムを読むと
エイフマンさんはこの作品を
こんな風に語られています
この小説は アンナの個性 情熱を
その精神に潜んでいる官能性の面から
現実的に解釈して描いた作品だと思う
どうして彼女は 自分や周囲の人々の精神を壊し 社会や神に逆らってまでも 子供を 家族を捨てるまでに なってしまったのでしょう
私がこのバレエで表現したのは
アンナという女性が
男たちとの愛 愛から生じる“情熱”というものの
犠牲になってしまったということです
大きな破壊力となり得る“情熱”によって
アンナの心は病んでしまい 変わっていきます
小説の中に このようなシーンがあります アンナが鏡に向かって言うのです 「これは私ではない 別人だ」と 彼女の中で 別の人間が生まれてしまっているわけです
人生において最も重要なゴールとは 何でしょう? 義務と感情が調和しあっているという 従来から信じられてきた幻想を保ち 平和に生きていくことか 真摯な情熱に屈することで 社会や常識との軋轢により 痛みと苦しみを味わうことか
情熱のために家族を崩壊させ 子供から母親を奪う権利があるのか?
これらの問いは 今でも答えが得られていないのです アンナは 最後に すべてを破壊してしまったその女性(つまり自分)を殺す という選択をします
自分の中に棲みついてしまった邪悪な力に 終止符を打ち解放されたのです そして 自分自身のみならず 夫や愛人をも解き放つことができました このバレエでは ひとりのダンサーが ふたつの人格を演じ分けることによって その精神状態を表現しています
2幕で 裸(ボディタイツ)姿で踊るシーンでのアンナは “情熱”という病に囚われた別人なのです
“情熱”とは 一体何なのでしょう それは ある時突然 人の心に棲みつき 台風のようにすべてを破壊してしまう 非合理的なものです
カレーニンは何も悪くない 非合理的な力による犠牲者です それはヴロンスキーにもいえることです
トルストイは 作中で 「なぜ」「何のために」という疑問を 頻繁に投げかけます
全ては 非合理的な力が働いたがゆえに
起きたことなのです
情熱 官能は 非合理なもので 人は往々にして その犠牲になってしまうものなのです 非合理なものだから 理性で理解しようとしてはいけないのですね? 不条理フェチの書き手は これもある種の不条理なのかな と思いました(笑)